メディア論

メディア論―人間の拡張の諸相

メディア論―人間の拡張の諸相

全然読みすすめない。超読みにくい。アメリカのその当時の文化を前提としているから想像力がいる。文章が難解。
けどすごい。なんか使い古されたフレーズだけどかっこよかったり、目から鱗な考え方とか大量にある。1964年の本なのに。
想像されるすかした内容のマスメディアの話ではないです。
メディアとは人間の拡張であり、この本ではその心理的、社会的な結果が考察されます。
マスメディアの人はこの本を読んでから働けばいいのに。
Webという新しいメディアにより自分が、世界がどう変わっていくのかということを考えるのに基礎になる本だ。

気になったところを引用。この本図書館で借りているんだけど、買おうかなー。

鉄道は移動とか輸送とか車輪とか線路とかを人間の社会に導入したのではない。それ以前の人間の機能のスケールを加速拡大し、その結果全く新しい種類の都市や新しい種類の労働や余暇を生み出したのである。


「システムがその流動的なプロセスのなかで突然に別のものにかわってしまう、あるいは帰還不能の限界を過ぎてしまう<変換点>」というものが、どんなメディアあるいは構造にも存在するということを示すことに関心がある。
こんにち道路はその<変換点>を越え、都市をハイウェイに変えてしまった。そして、本来のハイウェイが連続して都市の性格を帯びる。もう一つ、道路が<変換点>を越えた後の特徴的な逆転は、田園がいっさいの労働の中心でなくなり、都市が娯楽の中心でなくなることだ。実際、道路がよくなり、輸送の便ができると、古いパターンを逆転して、都市を労働の中心に田園を娯楽と慰安の中心にしてしまったのである。


技術という形態でわれわれ自身を拡張したものを見ること、使うこと、知覚することは、不可避的にそれを抱擁することになる。ラジオを聴くこと、印刷されたページを読むことは、われわれ自身の拡張したものを自身のシステムのなかに受容することであり、そのあとに自動的に生ずる「閉鎖」あるいは知覚の置換を経験することである。日常使用している自分自身の技術をたえず抱擁しつづけると、われわれは人間自身のこういうイメージにかんして意識下で自覚と麻痺を起こすナルシスの役割を演じないわけにいかなくなってしまう。たえず技術を抱擁しつづけると、われわれは自動制御装置としてそれらに自身を関係づけることになる。だからこそ、それらを使いこなすためには、これらの対象、これらわれわれ自身の拡張したものに、それが神あるいは小さな宗教ででもあるかのように仕えなければならなくなる。
生理的には、技術(すなわち、自身の多様に拡張した身体)を正常に使用している人間は、たえずそれによって変更を受け、また逆に、たえず自身の技術に変更を加える方法を見出す。ちょうどハチが植物の世界の生殖器であるように、人間は機械の世界のいわば生殖器となり、つねに新しい形式をその世界に受胎させ、進化させる。機械の世界は人間の愛に応えて、人間の願望と欲求を促進する。つまり富を与えることで。


何であれ新しいメディアが生み出されると、まぎれもなく「閉鎖」というべき心理的な作用が生ずるが、それはそれにたいする需要があるからである。自動車が生まれるまで、だれも自動車を欲しがりはしないし、テレビの番組ができるまで、だれもテレビに関心をもちはしない。独自の需要の世界を生み出すという、この技術の力は、技術がまず最初にわれわれ自身の身体および感覚の拡張であるという事実と無関係ではない。もし視覚を奪われれば、他の諸感覚がある程度は視覚の役割を引き受ける。けれども、使える感覚を使わなければならないという必要は、呼吸の場合と同じように抜きがたいものだ。だからこそ、ラジオやテレビを程度の差こそあれ持続的に放送して欲しいという衝動が、無理もないものとなるのである。持続的に使いたいという衝動は、公開される番組の「内容」あるいは個人の感覚生活の「内容」と全く関係がない。技術がわれわれの身体の一部であるという事実を証言するだけだ。電気の技術はわれわれの神経組織と直接に関係しているから、その大衆自身の神経の上で演じられているものについて、「大衆がなにを欲するか」を論じても滑稽である。この問題は、大都市の人々に、自分の周囲でどういう眺め、どういう響きが好きかと尋ねるようなものであろう。われわれの目や耳や神経を借用して利益を上げようとする人々の操作の手に、いったん、われわれの感覚や神経組織を譲り渡してしまったら、実際には、もうどんな権利も手元に残っていないのだ。目や耳や神経を商業会社に貸し与えることは、共有財産であることばを私企業に渡してしまうようなものであり、地球の大気を独占企業に与えてしまうようなものなのだ。


話すときには、そのときそのときの状況に反応し、自分の話す行為にさえも声の調子や身振りで反応する傾向があるけれども、書くという行為は一種の孤独あるいは専門の行為であって、反応を求める機会あるいは欲求はほとんどない。文字中心の人間や社会は、無文字の人間や社会が経験するであろう感情あるいは情緒的関与と相当に距離を置いたところで、いかなる問題にも絶大な行動力を発達させる。