好青年氏のMixi日記「Check it out!」に反応して

コメント欄に書こうかと思いましたが、女性らしき人のコメントもあったので雰囲気を壊すのではとこちらにエントリ。

CMとかネーミングでも、誰の熱意で、どんな説得、どんな会議で世の中に出てしまったのか気になるものがあるよね。
最近これはおかしいだろうと思ったのが「緑茶ウォーター」
なんか僕のセンスでは許せない。でも見かけたら買って飲んでやろうとは思ってる。そういう意味では成功しているのかもしれない。

逆に、凄いんだけど意外とテンションあがらなそうなのが最近のプリウスのCMで、ディカプリオにミスチル箒星インスツルメント。やたら金はかかるし、ディカプリオいるだけで成立しちゃうしいかにあたりさわりなくするかみたいな。和寿の声聞けないし。

まあいいや。
もとに戻って、僕の好きな映画監督は、完全に非常識な内容を、金と人を動かして形にするというところが特に尊敬できるなと。それでもって人の心を揺さぶる。まあ人の心を揺さぶるのに非常識である必要はないけどね。

だれでも感動できるものを作る映画はきらいじゃないしよく見るけど、作る人を大好きにはなれない。

でいつもどおり話はずれて、匿名の2chと現実の人とのつながりを強制されるMixiがあって、
Web上で匿名性を持つと非常識なことでも、思いのたけを発することができる。
友人関係での延長上にあるMixiだと、雰囲気やみんなの了解の範囲から大きく外れた発言はできない。
で大きく外れた発言、妄想は僕自身はあると思う。だから自分を信じられなくて自信が持てないのかもしれない。
自信のある人ってこういう妄想があまりないに違いない。どうだろう。

この両方を抱えて生きていくのに匿名Web空間が必要なのかという問いに、かっこよく答えているのが
http://blog.japan.cnet.com/kenn/archives/002805.html
のコメントにある平野啓一郎のコメント
コメントへの感想。
http://blog.japan.cnet.com/kenn/archives/002817.html

江島は、僕のことを個人的に知っているから、何となく想像できると思うけど、僕は必ずしも社交的ではないけど、割とそつなく人と交われる方で、それは十代からあんまり変わってないんです。だけど、中学、高校時代と、僕はずっと、今の言葉で言えば、敏感に「場の空気を読んで」、うまく人とコミュニケイト出来る一方で、自分の中には、そんなスムーズな対人関係には収まりきれない、いろんなろくでもない考えや、役にも立たない思いが満ちあふれていると常に感じていました。社会的に有用である、ということに、どうしても自分のアイデンティティを全的に賭することが出来なかった。そのろくでもないようなものの一抱えすべてが自分だと感じていたし、それをやっぱり表現したかった。それがまぁ、作家になった一番の動機です。

それで、僕は今、小説を書いていて、本当によかったと思う。僕は、親類や友人を含め、小説を通じて、初めて自分という人間を、十分に理解されつつある気がします。注意深くあえて書けば、それは「本当の自分」なんかじゃなくて、要するに、自分という一個の人間の複雑な組成、「複数性」を理解されつつあるという感動です。それで僕のことをもっと好きになる人もいれば、嫌いになる人もいるだろうけど、それは納得のいく好き嫌いで、自分の様々な面を抑圧しながら人に好かれるよりはずっといいと思う。僕はやっぱり、意識の有無に拘わらず、「普通の人」として社会的な人間関係に自分を結びつけるために、その多くの部分を日常のコミュニケイションから削ぎ落としていたと思う。今はその部分の存在を、僕も相手も、一種の前提としてコミュニケイト出来ています。

これまでにも平野の書いたものやインタビューは結構読んできてたつもりだけど、この2パラグラフはとりわけ最高に響いたね、ちくしょう。

俺の中にあったもろもろのモヤモヤが、なんか、フッと軽くなったじゃないの。

「そのろくでもないようなものの一抱えすべてが自分」ちくしょう。

「それで僕のことをもっと好きになる人もいれば、嫌いになる人もいるだろうけど、それは納得のいく好き嫌いで、自分の様々な面を抑圧しながら人に好かれるよりはずっといいと思う。」ちくしょうちくしょう。悔しいけど平野萌え。(笑)

僕も激しく痺れた。平野啓一郎も4,5冊読んでてイイと思っていて、イイと思う要素はここにあるのかな。
んーでもやっぱりこの思いは誰でもある気がしてきた。

以上